ザレゴト

ツイートの延長線。長くなりそうなこと

あなたのその励まし、本当に必要でしょうか。

 

三浦春馬の死

先月だったか、突然三浦春馬が自殺した。twitter上には追悼の言葉から真偽不明の噂に至るまで多くの情報が散乱し、世間の関心の高さがわかる。「あんな良い生活をしていて、何に悩んでいたんだろう」という話をバイト先でなされていたが、そう人々が思うのは理解できる。私でも知っている俳優なのだから、きっと相当の収入を得て、色恋沙汰も多くあって、「普通」を敢えて定義するならば、普通以上の生活をしていると考えるのは不思議ではない。そして、人々は普通以上の生活を送っていながら何故自死に至ったかの理由を知りたがる、または考えたがる。これも無理のない話だ。

私の言いたいことはこのツイートが端的に表している。他者の気持ちなんか所詮知ることはできない。目に見える表象、或いは状況証拠によって推察はできるが、その推察はあくまでも推察した人間の価値観や立場に大きく左右される良い加減な物である。それは親友や恋人であろうとも、ニアピン賞くらいが関の山だろう。まして、会ったこともない三浦春馬に対する推察など、宝くじをあてにいくような物だ。

三浦春馬ではなく、身近な人が自殺しようとしていたら

身近な人が思い詰めて自殺を考えた時、止めに行きたくなるのが人情であるし、多くの人はそういう行動をとる。しかし、前章で述べたとおり他人の悩みを推察することは原則できない。「私」と「あなた」で同じ感情を共有する事はできない。進振りで言えば、文二から経済学部であれば基本平均点が72点あれば確実に進学可能だ。しかし、文二から教養学部に進もうと思っても、72点ではどの学科にもいけない。このように少し背景が変わるだけで同じ事実であっても、同じ感情を共有できなくなってしまう。そもそも、「基本平均点が72点しかない。理情にいけない。どうしよう」と非東大生に相談したとて、ちょっとした慰みになれば良い方で、「東大に入れたんだから良いじゃないか」なんて言われてしまったら目も当てられない。

 

ツイ主は最後の励ましの言葉が害悪なものをみなしているが、私は最初の言葉も同じくらい害をなす言葉だと思うのだ。この二つに共通している事は「あなた」の悩みを矮小化して同じ視点には立ちません。と意思表明してしまっているところにある。「苦しいのはあなただけじゃない」「あなたにも良いところがある」というのは共に、同じ視点に立っていないのである。これは「東大に入れたんだから良いじゃない」と「学びたい学問を学べない」悩みを矮小化し、言われた側の傷をえぐる行為に等しい。または、安全なところにいる人が、10メートル沖合で溺れかけている人に1メートルの縄を投げているに等しい。

身近な人に救いを出すには、悩みを矮小化せずに受け入れる準備ができていると相手に伝えねばならない。10メートル沖合で溺れかけている人に、10メートルの縄を与えるのと同義である。決して、解決策は出さなくて良い。もっと言えば相槌以上の言葉もいらない。「私はあなたの悩みを心から理解する事はできない。けれど、悩みを吐露するあなたの全てを受け入れる」というスタンスが伝わればよく、その伝え方は千差万別で答えはない。ポイントはここに、感情がほとんど入ってない事である。ニュートラルである。多くの人がやりがちな、同情や共感(可哀想・あなたの悲しみは私の悲しみetc...)や状況の改善を目指すことを目指す励ましは自分勝手な行為であって奨励できるものではない。

何故励ましの自分勝手か

理由は二つ。一つは人類共感なんかできないからだ。共感できないのに、できると思い込んでいる人間ほどタチの悪いものはない。仮に相手の悲しみの原因が、自分にとって些末な問題であればあるほど、共感なんか消え去ってしまう。そして、相手の悩みを「矮小化」してしまうのである。悩みを「矮小化」された人間は、自分の殻にますます閉じ籠ってしまう。わかってもらえない辛さを抱え、さらに孤独まで感じてしまった人間は、本当に自殺しかねない。どうせ励ましている人間に、相手を追い込むかもしれないと覚悟を持ってやっている人間などいない。楽観的すぎるのだ。甚だ無責任である。

二つ目は、メリットがあるからだ。人間は誰しも関わり合いを持ちながら暮らしている。できれば縁を切らず、多くの気の合う仲間と楽しく過ごしていたいもの。だから、身近な人が悩みを抱え思い詰めている状態を解消してやる事は、自分の利益に敵う。まして、自殺なんかされた日には自分にも共通の知り合いにも多くの心の傷を与える。こんなことになってしまっては、たまったものでは無い。だから「解決」に躍起になったり、「矮小化」することで相手が悩みを悩みと思わなくさせようとするのである。

うつ病にかかった事のある私の感想であるが、多くの人が私に投げかけた薄っぺらいメッセージの多くは、全く響かないか、「理解されない」ことから来る疎外感を産むだけだった。私にとって救いだったのは、友達が「そこにいてくれただけである事」「鬱なツイートを投下するのを流してくれた事」、そして心療内科の先生が「私の精神状況を客観的に、論理的に、医学的に教えてくれた事」だけである。そこには、私に届く感情的なメッセージは何一つなかった。ただ私の存在や言動を認め、客観的に教えてくれる人がそこにいるだけだった。本当に思い詰めている人間に感情的なメッセージは効かない。むしろ逆効果だ。正直、オナニーと言って差し支えない。だから、このブログを見た人がいれば、もし周りに思い詰めた人間がいても急かさないで欲しい。鎮座して、その人を優しく見守って欲しいと私は思う。それが「私はあなたの悩みを心から理解する事はできない。けれど、悩みを吐露するあなたの全てを受け入れる」というスタンスであり、身近な人を救うのに繋がるのだ。

 

 

 

はばひろくみるということ

 

前段:あるツイート

最近、TLを見ていて変なツイートが目についた。母校の生徒会長のものだが、あまりにも偏見に満ちていて看過出来ないので、引用リツイートで取り上げた。鍵垢にもかかわらず多くの反響があった。今自分が思うのは、「自分の価値観に固執すれば、客観的な視座が失われ、失敗を犯す」ということだが、次の章で、ツイートを一つずつ考察しながら論を深めたい。

 

ツイートの考察

前段で紹介したツイートを一つずつ紹介する。

https://twitter.com/Hokusoniaaa0208/status/1262275055075028997?s=20 

(追記)ツイ消しされた。内容を要約すると、「長野高校の先生は受験指導しか目がないし、大学入ってやりたいことできるかなんてわかんないんだから、今から自分のやりたいことをしたい」という文脈。

まず、1行目からいきなり偏見が来ている。確かに受験に向けた指導が多いのかもしれないが、あくまで文科省が決めた「学習指導要領」に基づいて授業しているにすぎない。その点で先生を受験生製造マシーンとするのは名誉毀損であろう。

そして、高校は中等教育である。ISCEDによる中等教育の国際的な定義は、基礎教育の後半と、専門的教育である。後者を細分化すると、大学への準備、職業訓練、就職準備であり、日本の進学校であれば、大学への準備が当てはまる。また、大学は高等教育であるが、その定義は学修の結果学術称号が与えられる機関、つまり大学では好きな学問を修めることができるとされている。よく高校の学びを改革しなければならない、と教育改革が声高に求められるが、それは高等教育機関が変質するなら、その準備内容も変化させたいと主張しているに過ぎない。そして、実際改革が行われたところで、高等教育が受験を選抜で使う以上は、その受験対策は「大学への準備」を担う高校が実施する必要がある。つまり、「自分のやりたい事のための勉強」はそもそも中等教育の範囲外なのだから、高校で学ぶ事と同じ土俵に載せて、偏見で非難するのはよくないし、客観的に学校教育と北村氏の活動に甲乙つけるのはナンセンスであろう。

https://twitter.com/Hokusoniaaa0208/status/1262275802269278209?s=20

このツイートの思考は大企業にありがちな学歴社会と根を一にする。「伝統校が他校を引っ張らなければならない」という思考は「伝統校には他校を引っ張る資格がある」と「伝統校には他校を引っ張る素質がある」という思考を内在させばければならない。「伝統校」であってもどうしようもないやつはいるし、「新参校」に卓越した人材がいる。これは学歴社会に寄せられる批判そのままではないか。これが、彼の行う草の根的な活動と相性のいい価値観とは思わないし、はっきりいうと自分に酔ってんじゃないか、と思う。

https://twitter.com/Hokusoniaaa0208/status/1262284519828119554?s=20

そして、これ。長野高校の生徒会長である事を使って、内外に自分のしてきた事をアピールするのはどう見ても売名行為である。例えば「長野高校生」「東大生」というのは自分で獲得したステータスであるし、そのステータスを使ったところでone of them のニュアンスがあるし、誰かに信任されてえたステータスではない。しかし、長野高校の「生徒会長」となれば話は変わってくる。「生徒会長」は生徒会の仕事をするために信任された物であるし、「生徒会」を代表する人物である。つまり、校外に出て自分の活動をアピールするための役職ではないし、その肩書を使って活動するならば「長野高校の代表」としての活動となる。自分と異なる価値観の人が長野高校にはたくさんいるにもかかわらず、である。それは売名行為であり、公私混同である。価値観に善悪、甲乙が無い以上、「正しい事をしている」と自分を定義しているとすれば、それは自分の価値観に固執し過ぎて、客観視する能力が失われていると言わざるを得ない。

 

先行研究的な物の紹介

このブログを書くにあたって影響されたサイトが二つあるので引用したい。一つは筑波大学の掛谷准教授の記事(https://www.epochtimes.jp/p/2020/01/50592.html)である。なにぶん政治色が強いので全文を閲覧される際は注意されたい。

以前、研究室でこんなことがあった。ある年、新入りの学生に一つの課題を与えた。私の書いたプログラムの一部を変えれば完成する、ごく簡単な課題だった。ところが、いつまで経ってもプログラムは完成しない。あまりに時間がかかるので、なぜうまくいかないのか、彼が書き換えたプログラムの中身を確認してみた。すると、当該箇所は正しく書き換えられている。しかし、プログラムは動作しない。よく見てみると、私が書いた重要な部分が一箇所消されていることに気付いた。その部分を復元すると、プログラムは意図通り動作した。

私はその学生に聞いてみた。「どうして、この部分を消したの?」すると、彼の答えはこうだった。「この部分は何をしているか分からなかったので、意味がないと思って消しました。」

自分が理解できないものは意味がないと考えて、その存在を消し去る。(中略) 一人の人間の理解力には限界がある。だから、自分が理解できない部分についても、それが含まれてシステムが動作している以上、何らかの役割があるのではないかと考えながら作業を進めることが不可欠なのだ。 

つまり、自分の理解できないものは消してしまえ、という考えがある事を踏まえて、既存の物には何かしらの役割があるかもしれない、という事である。これは自分が考えている事が正しく、自分は全てのことを理解できる能力がある(今知っているかは関係ない)「はずだ」という傲慢な思考が根本にある。浅学であっても、自分に謙虚で、自分の価値観に固執しなければ、「意味がわからないから」という理由である事物を排除しようとはならないのである。北村氏の高校に対する偏見も、こういう思考から来ているのではないかと思う。ただし、これは彼に限った話ではなく、ツイッターで「一見議論しているように見える大人」にもよく見られるのであるが…

 

もう一つ似たような話として、太宰治の一握の砂金という喩えを使った一節がある。

https://twitter.com/ha_suuuuuu/status/1261833139099283457?s=20

特に、自分の意志によらず学習内容が勝手に決められてしまう初等・中等教育においてよく当てはまると思う。学びで大切なのはその内容ではなく、その過程なのだ、という話は受験で結果が求められる現代において救われる人も多いと思うが、今回取り上げたいのは、そこではない。「本質は隠れたところにあり、しかもそれには気付きにくい」という点だ。情報過多で、目まぐるしく変わる現代では、本質を掴むための静的な活動よりも、目に見える成果を得ようとする、言い換えれば「ええかっこしい」できる動的な活動の方が、自己肯定感もあがるし、世間の評価も高い。だが、本質を掴む静的な活動を軽視してしまえば、客観的な視座が失われ、自分の価値観しか座標を持たない人間になるだろう。

まとめ

北村氏のツイートの、自分の価値観を重視し過ぎている面を指摘した上で、二つのサイトを引用して、「自分の価値観に固執し過ぎず、客観的な視座が大切になる」ということを主張したいと思って、このブログを書いた。

(追記)コメントとかあると、自分の視座もアップデートできるので、よろしくお願いします。読者になってくださる方がいれば、ポチッと押してくれると喜びます。

 

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